成島柳北関連エントリー

柳橋新誌:成島柳北の時代批判

今日成島柳北の文業を正しく評価するものはほとんどいない。その著作のうち書肆に出回っているのは「柳橋新誌」くらいである。これは岩波文庫に収められているほか ... 関連リンク: 日本文学覚書 > 成島柳北 日本語と日本文化

柳橋新誌:成島柳北の時代批判

辟易賦:成島柳北讒謗律を風刺す

成島柳北の奇文「辟易賦」は明治8年8月17日の朝野新聞に掲載された。この年の6月に讒謗律と新聞紙条例が施行され、政府はさっそくそれを適用して ... 末広鉄腸らの新聞人を弾圧し始めたので、成島柳北はこの文を作って、政府を痛烈に批判したのである。 ...

辟易賦:成島柳北讒謗律を風刺す

パリの成島柳北

横浜港を出航して1ヶ月半の船旅をした成島柳北らの一行は、明治5年(1972)10月28日にマルセーユに上陸し、11月1日未明にパリに入った。 ... 成島柳北と時を同じくして、岩倉使節団も巴里に来ていた。そこで「米欧回覧日記」に記 ...

パリの成島柳北

成島柳北の投獄記:ごく内ばなし

成島柳北は筆禍がもとで讒謗律違反に問われ、明治9年の2月から6月までの四ヶ月間鍛冶橋監獄に収監された。この監獄は前年の12月にできたばかりで、西洋風の作りであった。 ... 関連リンク: 日本文学覚書 > 成島柳北

成島柳北の投獄記:ごく内ばなし

成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け

成島柳北は明治6年に米欧の旅行から帰国すると、一時京都東本願寺の翻訳局の局長を勤めるが、仕事は面白くなかったようで、もっぱら遊興の毎日を過ごした。 ... 成島柳北はそれをリードして、政府による新聞弾圧に果敢に立ち向かったことで知られる。 ...

成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け

成島柳北とは?

成島 柳北 (なるしま りゅうほく、1837年 - 1884年)は江戸幕府 幕府奥儒者の成島家に生まれ、明治以降はジャーナリストとして、また財界・文芸界で活躍。浅草生まれ。本名、惟弘(これひろ)。
成島家は19世紀前半から「徳川実紀」、「続徳川実紀」などの編纂を続けており、柳北も長じてこれに従った。徳川家定、徳川家茂 家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。この際、洋学を学ぶ。慶応年間に騎兵奉行、外国奉行(3千石.従五位下.大隅守)、会計副総裁を努める。
明治維新後、東本願寺法主の大谷現如の欧州視察随行員として明治5年、共に欧米を巡る。欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。後に大槻磐渓の紹介で「朝野新聞」の社長を務め、言論取締法の「讒謗律」や「新聞紙条例」を批判した。自由民権運動の中では、社論は大隈重信の改進党に近く、大隈の設立した早稲田大学の初代の議員にも就任している。また文芸雑誌「花月新誌」を創刊し文芸界でも活躍。商法会議所(現商工会議所)の設立、墨田川河畔の桜植樹等にも尽力、前米大統領のユリシーズ・S・グラント グラントの接遇委員も勤めた。1884年に胸の病で死去。

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